Logos -LivexEvil Ante Christum- act.04
エビル外伝四回目です。
閲覧に際してご注意いただきたい点⇒こちら
登場人物設定⇒こちら
上記すべてOKの方は以下リンクよりどうぞ。
4.
「そしたらあいつ、なんて言ったと思う? 白紙ってのはなにも書いてない紙のことだ、だってさ。天然なのかバカにしてんのか、どっちなんだろうな」
「天然なんだろ、きっと」
ラウルは小さく苦笑しながら言った。体は机に向けたまま、横顔だけで俺を振り返る。「じゃなきゃ、お前をバカにしてるんだ」
「なんだよそれ。答えになってねぇし」
ベッドにうつ伏せたまま、俺は不服の声を返した。四年越しのルームメイトは、再び机に向き直り、背中を軽く笑わせる。
――士官学校では、入学と同時に宿舎生活が義務付けられる。赤の他人と一つ屋根の下暮らすことで、軍隊に必要な協調性と忍耐力を養う目的があるのだろう。
幸いにして、ラウル・フェンフィとは最初からウマがあった。焦げ茶の髪と褐色の肌、それに、シェーナ人には珍しい薄いブルーの目を持つラウルは、さっぱりとした性格の、陽気で付き合いやすい男だ。左右の壁に沿って置かれた簡素なベッドと、窓際の勉強机、そして座り心地の悪い椅子。それだけしかない部屋での、制約の多い生活も、ラウルのおかげでずいぶん楽しく過ごしてこられたと思う。これが、ハツカやロウのような相手なら、こうはいかなかっただろう。実際、ロウのルームメイトは一年経たずに学校を辞めた。……もちろんその原因が、ロウにあるのかどうかは定かでないが。
「変わってるんだ、本当に」
俺は仰向けに体を転がしながら呟いた。染みの滲んだ天井を、見るともなしに眺める。「あいつがどんな軍人になるのかなんて、ぜんぜん想像つかねぇよ」
「それには同感だけど」
端末のキーボードを軽快に叩きながらラウルが言う。「今日もクロウス教官と派手にやりやったらしいな」
「それなら俺もハツカに聞いた。クロウス相手に軍閥主義を批判したって?」
「その一件のおかげで、卒業生総代はレン・ウォンシーで決まりらしいぞ」
「ハツカが勝手に騒いでるだけだろ」
「あと、学内の保守派連中もな。リーチンとか、チョウバクとかさ」
ぱちん、とひときわ大きな音がして、それを最後にタイプ音が止む。
「……あんまり関わり合いにはなりたくないやつばっか、だな」
名前を聞いて、俺はげんなり呟いた。仰向けのまま、ぐいと首を仰け反らせる。端末の電源を落としこちらに向き直るラウルの姿が、逆さの世界に映った。
「お前はそうでも、向こうは同じようには思っちゃくれないさ。やつらにとってレン・ウォンシーは、ロウ・ナギハラっていう異端に対する旗印みたいなもんなんだから」
「……めんどくせぇ」
心の底からぼやく。勝手になにかのシンボルに祀り上げられることほど、面倒で厄介なことはない。それはこの四年の間に、骨身に沁みて感じたことでもあった。
「お前はいつも、何かっていうとロウと比べられてきたからな」
席を立ったラウルが、自分のベッドに向かう。「まぁそれも、仕方のないことだと思うけど」
「本人にしてみりゃいい迷惑だよ。周りが思うほど俺もあいつも、互いのことなんか意識しちゃいないってのにさ」
ベッドに腰かけるラウルを見やりながら、俺は口を尖らせた。仰向けのまま、頭の下で両のてのひらを組む。少なくとも、ロウは俺のことなんか、まったく意識していない。自分の周りに存在する『その他大勢のひとり』ぐらいにしか認識していないだろう。
「お前らは、似てるけど違いすぎるんだ」
苦笑まじりにラウルが言った。「だから、周りが比べたがる。そういうもんさ」
「……」
俺はまた、天井の染みを眺める。
ロウ・ナギハラは、士官学校に入学した当初から有名人だった。それにはいくつかの理由がある。まず一つめの理由は、やつが入学生総代だったから。二つめの理由は、やつがシェーナとニホンのハーフだったから(この学校に通う生徒の九十九パーセントは生粋のシェーナ人だ)。そして三つめの理由は、やつが初めて出席した軍事史の授業で、教官に向けた言葉のせいだ。
『なぜ、諸国を従え、統率する必要があるのです。それではまるで、近隣の国々は、シェーナの属国のようではありませんか?』
ロウの放ったその言葉は、すぐさま学校中に知れ渡り、一部の生徒たちからは『ロウ・ナギハラを放校処分にするべきだ』という声が上がるほどの騒ぎになった。
それ以外にも、ロウにまつわる噂話は後を絶たない。実はハーフではなく生粋のニホン人なのだとか、飛びぬけて成績が良いのは教官の中に彼と通じている者がいるからだとか、ロウは他国のスパイだとか――数え挙げればキリがない。しかも当の本人が否定も肯定もしないものだから、噂はどんどん尾ヒレをつけて大きくなっていってしまう。
かくして、真偽のほどは確かでないまま、ロウに近づく人間はほとんどいなくなった。もっともロウ本人がそれを気にかけている様子など、まるでなかったのだが。
俺とロウは、入学当時から何かと比べられることが多かった。
生粋のシェーナ人。祖父の代から続く、由緒正しき軍人家系。母が出奔するという『些細なトラブル』はあったものの、何ひとつ不自由のない環境で俺は育った。周囲に俺を羨むやつはいても、さげすむやつはいなかった。
それに対してロウは、シェーナとニホンのハーフだ。両親はイルハムのバザールで小さな店を営んでいるらしい。
この国において、ニホン人の地位は低い。
一世紀以上前に起きた惑星規模の大災害。極東の小さな島国だったニホンは、その災害の影響で、国がまるごと海に沈んだ。母国を失い、国家難民となったニホン人を受け入れたのが、シェーナ共和国だった。
表向き、シェーナはニホン人を温かく迎え入れた。彼らが住むための土地も、生きるための仕事も与えた。しかしその一方で、ニホン人がシェーナ人と共存を始めて一世紀あまり、いまだシェーナの国内に、ニホン人に対する差別はなくならない。おそらくは、ロウの育った家庭もそれほど裕福ではなかったのだろう。バザールに店を出すというのは、シェーナにおける第三層、いうならば貧しい人々のすることに他ならないからだ。
マジョリティに生まれた俺と、マイノリティに生まれたロウ。万年二番手の俺と、常にトップのロウ。これほど比較に適した二人もたしかにいないと、自分のことながら思う。
だけど俺自身は、自分とロウとを比べてどうこう思ったことは、これまで一度もなかった。もともとそういうことに、あまり興味を持てない性格だからかもしれない。それに、自分自身と比べてみるには、俺はロウ・ナギハラという人間をあまりに知らなすぎた。
「軍に入ってからも、同じことが続くのかねぇ」
ごろりと寝がえりを打って、またうつ伏せになる。頬杖を突いて、ラウルを見た。ラウルはベッドの縁に腰かけたまま、変わらぬ苦笑を浮かべている。
「……さぁ、それはどうかな」
友人は、軽く首を傾けて、含みのある物言いをした。それから空気を変えるように、口許に滲む苦さを消す。「それよりも、卒業後の進路は決めたのか?」
「あー……、まだ決めてない」
「はぁ? 冗談だろ」
形の良いくっきりとした眉を持ち上げて、ラウルが呆れ声を上げる。「卒業まであと二ヶ月なんだぞ。留年でもするつもりか?」
「うるせぇな。二ヶ月以内に決めれば問題ないだろ」
俺はうんざりと目を細めた。「何も考えてないってわけじゃない。一応考えちゃいるけど、まだ決めてないだけだ」
「考えちゃいるって、どう考えてるんだ?」
「どうって……まぁ、なるようになるだろ、とか」
「あのなぁ、レン。そういうのは、考えてるとは言わない」
大げさなため息を吐いて、ラウルは首を左右に振った。頭痛がするとでもいうように、こめかみを指でグリと押す。「俺はてっきり、お前は兄貴と同じ情報本部に行くもんだとばかり思ってたよ」
「情報本部かぁ。それでもいいっちゃいいんだけどさ」
思ったままを答えると、もう一度ラウルがため息を吐いた。
「それでもいいってお前……自分のことだろ。何がしたいとかないのかよ」
「したいこと、ねぇ」
頬杖を突いたまま考える。
子供の頃から、大きくなったら軍人になるのだろうと思っていた。祖父も父も軍人で、将来はお前も立派な軍人になるのだと言い聞かされて育ったからだ。それ以上の理由はない。物ごころがつくころには、『軍人になる』という未来が、俺の中には当たり前に存在していた。その意味や、軍人になったあと自分がどうしたいかなど、――気がつけば、考えてみたこともなかった。
「……お前も、ロウとは別の意味で変わってるよな」
語尾をあいまいに濁したまま、それ以上言葉の続かない俺を見て、ラウルが呟く。
「そうかな。……そうかも」
俺は苦笑を浮かべると体を起こした。ベッドの上にあぐらをかく。「お前はたしか、陸軍志望だったよな」
「ああ。Fシリーズを思いっきり飛ばすのが、子供の頃からの夢だからな」
水色の目が無邪気に笑った。
「お前なら、良いパイロットになるんじゃねぇの」
「あたりまえだろ。誰に言ってんだ」
「ラウル・フェンフィ様にだよ。このヒコーキマニア!」
言いながら、枕を掴んで投げつける。咄嗟に受け止めたラウルの手元で、長らく日干しをしていない枕が、派手に埃をまき散らす。
「げほっ、なんだよこの枕! 汚ねぇな! あとマニアって言うな!」
むせながら、ラウルが枕を投げ返してきた。受け取る俺の手元でも、盛大に埃がたつ。同じようにむせる俺を見て、ラウルは可笑しげに笑った。それからふと、笑みをゆるめる。「……軍に入ってからもさ。一緒に働けるといいな」
「どうした? こんな馬鹿やれんのもあと二ヶ月だと思ったら、急に寂しくなったか」
枕を腕に抱えたまま、茶化すように俺は返した。
「……誰が寂しくなったって?」
馬鹿馬鹿しい、というようにラウルがふいと顔を背ける。
「拗ねんなよ、ラウ」
「拗ねてねぇよ。ていうか、なんで俺が拗ねなきゃいけないんだよ」
からかいの言葉を投げると、こちらを向いた横顔が、さらにヘソを曲げた。その様子をおかしく思いながらも――それとはまったく別のところで、俺はぼんやりと考える。
俺は自分と比べられるほど、ロウのことを何も知らない。
だけど俺はそれ以上に――俺自身のことを、何も分かっていないのかもしれない。
閲覧に際してご注意いただきたい点⇒こちら
登場人物設定⇒こちら
上記すべてOKの方は以下リンクよりどうぞ。
「そしたらあいつ、なんて言ったと思う? 白紙ってのはなにも書いてない紙のことだ、だってさ。天然なのかバカにしてんのか、どっちなんだろうな」
「天然なんだろ、きっと」
ラウルは小さく苦笑しながら言った。体は机に向けたまま、横顔だけで俺を振り返る。「じゃなきゃ、お前をバカにしてるんだ」
「なんだよそれ。答えになってねぇし」
ベッドにうつ伏せたまま、俺は不服の声を返した。四年越しのルームメイトは、再び机に向き直り、背中を軽く笑わせる。
――士官学校では、入学と同時に宿舎生活が義務付けられる。赤の他人と一つ屋根の下暮らすことで、軍隊に必要な協調性と忍耐力を養う目的があるのだろう。
幸いにして、ラウル・フェンフィとは最初からウマがあった。焦げ茶の髪と褐色の肌、それに、シェーナ人には珍しい薄いブルーの目を持つラウルは、さっぱりとした性格の、陽気で付き合いやすい男だ。左右の壁に沿って置かれた簡素なベッドと、窓際の勉強机、そして座り心地の悪い椅子。それだけしかない部屋での、制約の多い生活も、ラウルのおかげでずいぶん楽しく過ごしてこられたと思う。これが、ハツカやロウのような相手なら、こうはいかなかっただろう。実際、ロウのルームメイトは一年経たずに学校を辞めた。……もちろんその原因が、ロウにあるのかどうかは定かでないが。
「変わってるんだ、本当に」
俺は仰向けに体を転がしながら呟いた。染みの滲んだ天井を、見るともなしに眺める。「あいつがどんな軍人になるのかなんて、ぜんぜん想像つかねぇよ」
「それには同感だけど」
端末のキーボードを軽快に叩きながらラウルが言う。「今日もクロウス教官と派手にやりやったらしいな」
「それなら俺もハツカに聞いた。クロウス相手に軍閥主義を批判したって?」
「その一件のおかげで、卒業生総代はレン・ウォンシーで決まりらしいぞ」
「ハツカが勝手に騒いでるだけだろ」
「あと、学内の保守派連中もな。リーチンとか、チョウバクとかさ」
ぱちん、とひときわ大きな音がして、それを最後にタイプ音が止む。
「……あんまり関わり合いにはなりたくないやつばっか、だな」
名前を聞いて、俺はげんなり呟いた。仰向けのまま、ぐいと首を仰け反らせる。端末の電源を落としこちらに向き直るラウルの姿が、逆さの世界に映った。
「お前はそうでも、向こうは同じようには思っちゃくれないさ。やつらにとってレン・ウォンシーは、ロウ・ナギハラっていう異端に対する旗印みたいなもんなんだから」
「……めんどくせぇ」
心の底からぼやく。勝手になにかのシンボルに祀り上げられることほど、面倒で厄介なことはない。それはこの四年の間に、骨身に沁みて感じたことでもあった。
「お前はいつも、何かっていうとロウと比べられてきたからな」
席を立ったラウルが、自分のベッドに向かう。「まぁそれも、仕方のないことだと思うけど」
「本人にしてみりゃいい迷惑だよ。周りが思うほど俺もあいつも、互いのことなんか意識しちゃいないってのにさ」
ベッドに腰かけるラウルを見やりながら、俺は口を尖らせた。仰向けのまま、頭の下で両のてのひらを組む。少なくとも、ロウは俺のことなんか、まったく意識していない。自分の周りに存在する『その他大勢のひとり』ぐらいにしか認識していないだろう。
「お前らは、似てるけど違いすぎるんだ」
苦笑まじりにラウルが言った。「だから、周りが比べたがる。そういうもんさ」
「……」
俺はまた、天井の染みを眺める。
ロウ・ナギハラは、士官学校に入学した当初から有名人だった。それにはいくつかの理由がある。まず一つめの理由は、やつが入学生総代だったから。二つめの理由は、やつがシェーナとニホンのハーフだったから(この学校に通う生徒の九十九パーセントは生粋のシェーナ人だ)。そして三つめの理由は、やつが初めて出席した軍事史の授業で、教官に向けた言葉のせいだ。
『なぜ、諸国を従え、統率する必要があるのです。それではまるで、近隣の国々は、シェーナの属国のようではありませんか?』
ロウの放ったその言葉は、すぐさま学校中に知れ渡り、一部の生徒たちからは『ロウ・ナギハラを放校処分にするべきだ』という声が上がるほどの騒ぎになった。
それ以外にも、ロウにまつわる噂話は後を絶たない。実はハーフではなく生粋のニホン人なのだとか、飛びぬけて成績が良いのは教官の中に彼と通じている者がいるからだとか、ロウは他国のスパイだとか――数え挙げればキリがない。しかも当の本人が否定も肯定もしないものだから、噂はどんどん尾ヒレをつけて大きくなっていってしまう。
かくして、真偽のほどは確かでないまま、ロウに近づく人間はほとんどいなくなった。もっともロウ本人がそれを気にかけている様子など、まるでなかったのだが。
俺とロウは、入学当時から何かと比べられることが多かった。
生粋のシェーナ人。祖父の代から続く、由緒正しき軍人家系。母が出奔するという『些細なトラブル』はあったものの、何ひとつ不自由のない環境で俺は育った。周囲に俺を羨むやつはいても、さげすむやつはいなかった。
それに対してロウは、シェーナとニホンのハーフだ。両親はイルハムのバザールで小さな店を営んでいるらしい。
この国において、ニホン人の地位は低い。
一世紀以上前に起きた惑星規模の大災害。極東の小さな島国だったニホンは、その災害の影響で、国がまるごと海に沈んだ。母国を失い、国家難民となったニホン人を受け入れたのが、シェーナ共和国だった。
表向き、シェーナはニホン人を温かく迎え入れた。彼らが住むための土地も、生きるための仕事も与えた。しかしその一方で、ニホン人がシェーナ人と共存を始めて一世紀あまり、いまだシェーナの国内に、ニホン人に対する差別はなくならない。おそらくは、ロウの育った家庭もそれほど裕福ではなかったのだろう。バザールに店を出すというのは、シェーナにおける第三層、いうならば貧しい人々のすることに他ならないからだ。
マジョリティに生まれた俺と、マイノリティに生まれたロウ。万年二番手の俺と、常にトップのロウ。これほど比較に適した二人もたしかにいないと、自分のことながら思う。
だけど俺自身は、自分とロウとを比べてどうこう思ったことは、これまで一度もなかった。もともとそういうことに、あまり興味を持てない性格だからかもしれない。それに、自分自身と比べてみるには、俺はロウ・ナギハラという人間をあまりに知らなすぎた。
「軍に入ってからも、同じことが続くのかねぇ」
ごろりと寝がえりを打って、またうつ伏せになる。頬杖を突いて、ラウルを見た。ラウルはベッドの縁に腰かけたまま、変わらぬ苦笑を浮かべている。
「……さぁ、それはどうかな」
友人は、軽く首を傾けて、含みのある物言いをした。それから空気を変えるように、口許に滲む苦さを消す。「それよりも、卒業後の進路は決めたのか?」
「あー……、まだ決めてない」
「はぁ? 冗談だろ」
形の良いくっきりとした眉を持ち上げて、ラウルが呆れ声を上げる。「卒業まであと二ヶ月なんだぞ。留年でもするつもりか?」
「うるせぇな。二ヶ月以内に決めれば問題ないだろ」
俺はうんざりと目を細めた。「何も考えてないってわけじゃない。一応考えちゃいるけど、まだ決めてないだけだ」
「考えちゃいるって、どう考えてるんだ?」
「どうって……まぁ、なるようになるだろ、とか」
「あのなぁ、レン。そういうのは、考えてるとは言わない」
大げさなため息を吐いて、ラウルは首を左右に振った。頭痛がするとでもいうように、こめかみを指でグリと押す。「俺はてっきり、お前は兄貴と同じ情報本部に行くもんだとばかり思ってたよ」
「情報本部かぁ。それでもいいっちゃいいんだけどさ」
思ったままを答えると、もう一度ラウルがため息を吐いた。
「それでもいいってお前……自分のことだろ。何がしたいとかないのかよ」
「したいこと、ねぇ」
頬杖を突いたまま考える。
子供の頃から、大きくなったら軍人になるのだろうと思っていた。祖父も父も軍人で、将来はお前も立派な軍人になるのだと言い聞かされて育ったからだ。それ以上の理由はない。物ごころがつくころには、『軍人になる』という未来が、俺の中には当たり前に存在していた。その意味や、軍人になったあと自分がどうしたいかなど、――気がつけば、考えてみたこともなかった。
「……お前も、ロウとは別の意味で変わってるよな」
語尾をあいまいに濁したまま、それ以上言葉の続かない俺を見て、ラウルが呟く。
「そうかな。……そうかも」
俺は苦笑を浮かべると体を起こした。ベッドの上にあぐらをかく。「お前はたしか、陸軍志望だったよな」
「ああ。Fシリーズを思いっきり飛ばすのが、子供の頃からの夢だからな」
水色の目が無邪気に笑った。
「お前なら、良いパイロットになるんじゃねぇの」
「あたりまえだろ。誰に言ってんだ」
「ラウル・フェンフィ様にだよ。このヒコーキマニア!」
言いながら、枕を掴んで投げつける。咄嗟に受け止めたラウルの手元で、長らく日干しをしていない枕が、派手に埃をまき散らす。
「げほっ、なんだよこの枕! 汚ねぇな! あとマニアって言うな!」
むせながら、ラウルが枕を投げ返してきた。受け取る俺の手元でも、盛大に埃がたつ。同じようにむせる俺を見て、ラウルは可笑しげに笑った。それからふと、笑みをゆるめる。「……軍に入ってからもさ。一緒に働けるといいな」
「どうした? こんな馬鹿やれんのもあと二ヶ月だと思ったら、急に寂しくなったか」
枕を腕に抱えたまま、茶化すように俺は返した。
「……誰が寂しくなったって?」
馬鹿馬鹿しい、というようにラウルがふいと顔を背ける。
「拗ねんなよ、ラウ」
「拗ねてねぇよ。ていうか、なんで俺が拗ねなきゃいけないんだよ」
からかいの言葉を投げると、こちらを向いた横顔が、さらにヘソを曲げた。その様子をおかしく思いながらも――それとはまったく別のところで、俺はぼんやりと考える。
俺は自分と比べられるほど、ロウのことを何も知らない。
だけど俺はそれ以上に――俺自身のことを、何も分かっていないのかもしれない。
(つづく)
スポンサーサイト
お知らせ
BL話題なので畳んでおきます。
OKな方のみ下記リンクからどうぞ。
OKな方のみ下記リンクからどうぞ。
エビルの外伝的なものを書こうかなと思っています。
といっても、完全に個人の趣味で書くものなので、
オフィシャル外伝ではありません。
ifの世界としてとらえていただけるとありがたいです。
こんな話があったかもしれない(でもなかったかもしれない)、
そんなあいまいさとゆるさで読んでいただけると幸いです。
エビルの開発ブランドであるEDGEはすでに解散しており、
私自身も運営元の会社を離れて数年が経過しているので、
こちらに書くテキストとEDGE、ならびに運営会社とは、
何の関係もないことをご理解いただければと思います。
…とまあ、堅苦しく、そして回りくどい前置きはさておき。
ゲーム本篇の世界から数十年前の物語になる予定です。
舞台はシェーナ共和国の首都、イルハム。
士官学校に通う、とあるAくんと、とあるBくんのお話です。
若かりし日の某情報屋とその親友が出てきます。
いちおうBLカテゴリーに入れますがBLっ気は薄いかもしれません…。
どちらかといえば、やや行き過ぎた友情もの、に近いテイストの予定です。
限りなくのろまな更新をお許しください。
仕事の合間にちまちま書いては、少しづつ上げてゆくつもりでいます。
なにより自分自身が楽しんで連載していきたいなと思っているので、
のんびりまったりなまぬるくお付き合いいただければ嬉しいです。
内容に関する苦情、疑問、感想などはすべて私、宙地宛に送ってください。
くれぐれも運営会社の方には送らないよう、ご注意いただければと思います。
上記すべてOK!という方は、ifの世界の外伝を楽しんでいただければ幸いです。
今週末あたりに、第一話をアップ予定です。
といっても、完全に個人の趣味で書くものなので、
オフィシャル外伝ではありません。
ifの世界としてとらえていただけるとありがたいです。
こんな話があったかもしれない(でもなかったかもしれない)、
そんなあいまいさとゆるさで読んでいただけると幸いです。
エビルの開発ブランドであるEDGEはすでに解散しており、
私自身も運営元の会社を離れて数年が経過しているので、
こちらに書くテキストとEDGE、ならびに運営会社とは、
何の関係もないことをご理解いただければと思います。
…とまあ、堅苦しく、そして回りくどい前置きはさておき。
ゲーム本篇の世界から数十年前の物語になる予定です。
舞台はシェーナ共和国の首都、イルハム。
士官学校に通う、とあるAくんと、とあるBくんのお話です。
若かりし日の某情報屋とその親友が出てきます。
いちおうBLカテゴリーに入れますがBLっ気は薄いかもしれません…。
どちらかといえば、やや行き過ぎた友情もの、に近いテイストの予定です。
限りなくのろまな更新をお許しください。
仕事の合間にちまちま書いては、少しづつ上げてゆくつもりでいます。
なにより自分自身が楽しんで連載していきたいなと思っているので、
のんびりまったりなまぬるくお付き合いいただければ嬉しいです。
内容に関する苦情、疑問、感想などはすべて私、宙地宛に送ってください。
くれぐれも運営会社の方には送らないよう、ご注意いただければと思います。
上記すべてOK!という方は、ifの世界の外伝を楽しんでいただければ幸いです。
今週末あたりに、第一話をアップ予定です。
One picture postcard.
***ご説明***
BLゲーム「LiveXEvil」のSSです。
「LiveXEvil灼熱のエデマ」ならびに「LiveXEvil熱砂のプロメテウス」のネタばれを含みます。
なお、このSSは宙地個人の二次創作物であり、オフィシャルとは一切関係ありません。
上記をご理解いただける方のみ、下記リンクよりどうぞ。
BLゲーム「LiveXEvil」のSSです。
「LiveXEvil灼熱のエデマ」ならびに「LiveXEvil熱砂のプロメテウス」のネタばれを含みます。
なお、このSSは宙地個人の二次創作物であり、オフィシャルとは一切関係ありません。
上記をご理解いただける方のみ、下記リンクよりどうぞ。
※「熱砂のプロメテウス」本篇終了後の設定です
※アキ視点です
あの人から、一枚の絵葉書が送られてきたのは、聖誕祭の朝だった。
「絵葉書とは珍しいな」
「だよね。俺、本物見るの初めてかも」
二人分のコーヒーカップを運びながら、サカキの声に俺は答える。
「今は西の方にいるみたいだよ。はい、コーヒー」
「おう。……気楽な奴だな、相変わらず」
「でも、知らない国を旅して回るなんてすごいよね。俺には想像もつかないや」
ソファの定位置に腰を下ろして一息つき、カップを口元に運ぶ。
キッチンに行って、コーヒーを入れ、リビングに戻ってそれを飲む。
それだけのことがようやく一人で出来るようになったのは、ここひと月ほどのことだ。
「あいつは世渡りが上手そうだからな。どこに行ってもそれなりにやれてるんだろうよ。ほれ」
絵葉書がテーブルの上を滑って、俺の手元に戻ってくる。紙特有の、少しざらついた感触が、なんだか優しい。
「……にしてもよ」
「うん?」
「その文面は何なんだ」
「文面……?」
「キザったらしいのにも程があるぜ。それじゃまるで、恋人にでも贈るカードじゃねぇか」
煙草を咥えながら、眉をしかめてサカキが言う。
「でも、キサさんから送られてくるメールって、いつもこんな感じだよ?」
俺は苦笑して答えると、裏面の余白を埋める整った文字に目を落した。簡単な近況報告とメッセージ。彼らしい内容に自然と頬が弛む。言われてみれば確かにキザかもしれないけど、嫌いじゃないと俺は思う。ふわりと漂ってくる煙草の匂いを感じながら、カードを表に返した。
うすく青光りする一面の雪景色。その雪に埋もれるようにして、ぽつり、ぽつりと小さな家が建っている。夕暮れ時なのだろうか。家の窓からは、いかにも暖かそうなオレンジ色の灯りが漏れていて、周囲の空気をそこだけ仄かに染めていた。――とてもきれいな景色だった。
「これって、絵じゃなくて写真だよね。こんな場所があるなんて、なんだか信じられないな」
「ワダツじゃ雪どころか雨だって、年に何度も降らねぇからなぁ」
「うん。……あ、でも」
「何だよ?」
「俺、子供の時に一度だけ、雪を見たことがあるような気がする」
俺は頬杖をついた。絵葉書の中の景色のように、夢のような、おぼろげな記憶。あれは一体、いつのことだろう。覚えているのは、父さんがいて母さんがいて、それから、兄さんと俺がいたってことだけだ。聖誕祭の朝か、そのあたり。灰色の空から白いものが落ちてきて、俺は大喜びで外に飛び出した。きれいな白いものを兄さんにあげたくて手のひらで捕まえたら、それはすぐに溶けて消えてしまった。今思えば当たり前のことなんだけど、その時は雪を捕まえられないことが悔しくて、なんだかずいぶん駄々をこねたような気がする。馬鹿とか何とか言いながら困ったように笑う兄さんの顔だけを、いやに鮮やかに覚えていた。
「そんなこと、あったか?」
「あったよ。先生がたぶんまだ、今より少しは若かったころ」
「ああ? 俺は今でも充分若いぞ」
「そうやってすぐムキになるところが、もう若くない証拠だと思うんだけど」
「言うじゃねぇか。ベッドでしょげかえってた頃の、しおらしいお前が懐かしいぜ」
「おかげさまで、名医の治療でこんなに元気になりました」
「ああそうかい。せいぜいその名医に感謝するんだな」
「してるよ。心の底からね」
眉を上げて俺が笑うと、サカキは苦笑して、白髪頭をやれやれと振った。
「確かに、怪我したお前を最初に見た時は、正直やばいと思ったよ」
「だろうね。あの時はなんだか体が軽くなった気がしてたもの。血がほとんど抜けたせいかな」
悲鳴と怒号の響くパーティー会場。撃たれた胸の痛みより、もっと深くが痛かった。体から血液と一緒に自分の命がどんどん流れ出していくのが分かった。動けなかった。死にたくない、と思った。死ぬのが怖いわけじゃなかった。ただ、自分が死んだら、兄さんは人殺しになってしまう。もしかしたら兄さんはもう人殺しなのかもしれないけど、でも、兄さんに俺を殺させるのはどうしても嫌だった。死にたくない。誰か助けて。指一本動かせず、掠れ声すら出せないまま、俺はずっと叫んでた。祈るみたいに叫んでた。そうしたら、あの人が来てくれたんだ。大丈夫。そう言われて――次に目が覚めた時、俺はベッドの上にいた。
「本当に、お前の生命力には驚くぜ。普通なら、まともに立って歩けるようになるまで一年はかかる。それをたったの数ヶ月で、よくここまで回復したもんだ」
「日ごろからプラントの力仕事で鍛えてたからね。それに、ベッドで寝てるのはいい加減飽きたし」
「だからって無茶するんじゃねぇぞ。近所以外の外出は、主治医としちゃ、まだ許可できねぇからな」
「分かってるって。先生に黙ってトザに行こうとするような真似はもうしません」
半月前のことを思い出し、俺はわざとおどけた口調を作って言った。
「……まったく。ベッドから降りれるようになった途端、トザ行きの長距離バスに飛び乗ろうとしやがって。偶然ターミナルの近くでお前を見かけたって奴が俺に教えてくれなかったら、どんなことになってたか……。考えただけでぞっとするぞ」
煙草の灰を落しながら、サカキが呟く。「少しでも早く兄貴に会いに行きてぇっていう、お前の気持ちも分からなくはないけどな。今はまず、自分の体を第一に考えろ」
「……」
サカキの声に含まれた真剣な響きに、俺は笑みを薄めるとさりげなく視線を逸らした。絵葉書に映る小さな家の、窓灯りが一瞬ゆらぐ。
「――いつか俺も、こんな景色、見に行けるかな」
「いつかなんて遠い未来じゃなくても行けるさ」
独り言のように零した言葉に、煙草で掠れた声が答えた。「西の国だかどこだかをふらふらしてる、あのキザ野郎に言ってみろ。喜び勇んで迎えに来るぜ」
続ける声が笑っている。それにつられて、俺も口元をゆるめた。
「でも、俺がキサさんと旅に出ちゃったら、先生、寂しくない?」
「馬鹿言え。俺はもともと独りだったんだ。お前がいなくなったところで、元通りに戻るだけだ」
「だから、そうやってムキになるところが、逆に怪しいんですけど」
「……うるせぇ奴だな」
白髪の混じった眉が、面白くなさそうにしかめられる。俺は肩で笑いを堪えた。
「旅先から絵葉書を出すよ。先生や、オミたちや、トザにいるセイジュとケンショウや、……それから兄さんにも。いろんな景色の絵葉書を出すんだ。キサさんが俺にくれたみたいなメッセージを添えてね。……どうかな。良い考えだと思わない?」
「……まあな」
「きっと、届くよね。キサさんからの絵葉書が俺に『届いた』みたいに。俺の出した絵葉書も、皆や、それから兄さんに、届くよね」
「……ああ」
微かに目を眇めて、サカキが小さく頷く。「届くだろうさ。お前からの絵葉書なら、きっとな」
「……」
――どんどんどん!
その時、ドアを激しくノックする音が聞こえてきた。家の玄関じゃなく、診療所の方だ。
『おーい、先生! いるかー!?』
呼びかけるような声が続く。
「やれやれ。今日も一日、貧乏暇なしか」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、白髪頭を掻きまわしながらサカキが立ち上がる。
「カイエンの頼れる名医、だからね」
「ふん。そのわりには、どいつもこいつも俺への愛とか尊敬が足りてねぇ気がするぞ」
「俺は先生のこと、大好きだよ?」
「……言ってろ。馬鹿が」
サカキはソファの背に掛けっぱなしの白衣を取り上げ、照れ隠しに肩をいからせながら、それをばさりと羽織る。「おら。お前もさっさと来い。診療所の手伝いも大事なリハビリだ」
「そうやって、なんでもリハビリにかこつけて、俺に雑用押し付けようとするんだからなぁ」
「さっさと元気になるんだろ。だったら文句言うな」
「はいはい」
部屋を出て行く後ろ姿に首を竦めて立ち上がり、テーブルの上に絵葉書を置く。裏面に刻まれた文字を、俺は指でひとなでした。
アキくん、元気かい。
俺はいま、西の国を旅しているよ。
ワダツでは想像もつかないだろうけど、
世界にはこんなに美しい場所がまだ残っているんだ。
いつかキミにも見せてあげたいな。
こうして旅をしていると、
俺みたいな人間でも時々思う。
この世界も、まんざら捨てたものじゃない。
ねえ。そうは思わないかい?
「……うん。そうだね、キサさん」
たぶん、小さな奇蹟はたくさんあるから。たとえば、聖誕祭の朝に届けられた絵葉書のように。たとえば、あの日の雪のように。たとえば、俺がまだ生きてるように。小さな奇蹟が降り積もって、いつか世界を染めるかもしれない。その日が来るって信じられているうちは、俺は歩いていける。涙が出そうなほど、きれいで懐かしい場所が、この世界のどこかにある――そう信じていられるから。
『アキ! なにやってんだ! さっさと来い!』
診療所からドクターのがなり声が聞こえてくる。
「ごめんごめん。今、行くよ」
笑いながら俺は答えて、歩き出す。そして、ふと、気付いたりする。今、笑えていることも、たぶん小さな奇蹟のひとつ。連なって、降り積もって、そしていつかきっと、届けたい誰かに届く。
※アキ視点です
あの人から、一枚の絵葉書が送られてきたのは、聖誕祭の朝だった。
「絵葉書とは珍しいな」
「だよね。俺、本物見るの初めてかも」
二人分のコーヒーカップを運びながら、サカキの声に俺は答える。
「今は西の方にいるみたいだよ。はい、コーヒー」
「おう。……気楽な奴だな、相変わらず」
「でも、知らない国を旅して回るなんてすごいよね。俺には想像もつかないや」
ソファの定位置に腰を下ろして一息つき、カップを口元に運ぶ。
キッチンに行って、コーヒーを入れ、リビングに戻ってそれを飲む。
それだけのことがようやく一人で出来るようになったのは、ここひと月ほどのことだ。
「あいつは世渡りが上手そうだからな。どこに行ってもそれなりにやれてるんだろうよ。ほれ」
絵葉書がテーブルの上を滑って、俺の手元に戻ってくる。紙特有の、少しざらついた感触が、なんだか優しい。
「……にしてもよ」
「うん?」
「その文面は何なんだ」
「文面……?」
「キザったらしいのにも程があるぜ。それじゃまるで、恋人にでも贈るカードじゃねぇか」
煙草を咥えながら、眉をしかめてサカキが言う。
「でも、キサさんから送られてくるメールって、いつもこんな感じだよ?」
俺は苦笑して答えると、裏面の余白を埋める整った文字に目を落した。簡単な近況報告とメッセージ。彼らしい内容に自然と頬が弛む。言われてみれば確かにキザかもしれないけど、嫌いじゃないと俺は思う。ふわりと漂ってくる煙草の匂いを感じながら、カードを表に返した。
うすく青光りする一面の雪景色。その雪に埋もれるようにして、ぽつり、ぽつりと小さな家が建っている。夕暮れ時なのだろうか。家の窓からは、いかにも暖かそうなオレンジ色の灯りが漏れていて、周囲の空気をそこだけ仄かに染めていた。――とてもきれいな景色だった。
「これって、絵じゃなくて写真だよね。こんな場所があるなんて、なんだか信じられないな」
「ワダツじゃ雪どころか雨だって、年に何度も降らねぇからなぁ」
「うん。……あ、でも」
「何だよ?」
「俺、子供の時に一度だけ、雪を見たことがあるような気がする」
俺は頬杖をついた。絵葉書の中の景色のように、夢のような、おぼろげな記憶。あれは一体、いつのことだろう。覚えているのは、父さんがいて母さんがいて、それから、兄さんと俺がいたってことだけだ。聖誕祭の朝か、そのあたり。灰色の空から白いものが落ちてきて、俺は大喜びで外に飛び出した。きれいな白いものを兄さんにあげたくて手のひらで捕まえたら、それはすぐに溶けて消えてしまった。今思えば当たり前のことなんだけど、その時は雪を捕まえられないことが悔しくて、なんだかずいぶん駄々をこねたような気がする。馬鹿とか何とか言いながら困ったように笑う兄さんの顔だけを、いやに鮮やかに覚えていた。
「そんなこと、あったか?」
「あったよ。先生がたぶんまだ、今より少しは若かったころ」
「ああ? 俺は今でも充分若いぞ」
「そうやってすぐムキになるところが、もう若くない証拠だと思うんだけど」
「言うじゃねぇか。ベッドでしょげかえってた頃の、しおらしいお前が懐かしいぜ」
「おかげさまで、名医の治療でこんなに元気になりました」
「ああそうかい。せいぜいその名医に感謝するんだな」
「してるよ。心の底からね」
眉を上げて俺が笑うと、サカキは苦笑して、白髪頭をやれやれと振った。
「確かに、怪我したお前を最初に見た時は、正直やばいと思ったよ」
「だろうね。あの時はなんだか体が軽くなった気がしてたもの。血がほとんど抜けたせいかな」
悲鳴と怒号の響くパーティー会場。撃たれた胸の痛みより、もっと深くが痛かった。体から血液と一緒に自分の命がどんどん流れ出していくのが分かった。動けなかった。死にたくない、と思った。死ぬのが怖いわけじゃなかった。ただ、自分が死んだら、兄さんは人殺しになってしまう。もしかしたら兄さんはもう人殺しなのかもしれないけど、でも、兄さんに俺を殺させるのはどうしても嫌だった。死にたくない。誰か助けて。指一本動かせず、掠れ声すら出せないまま、俺はずっと叫んでた。祈るみたいに叫んでた。そうしたら、あの人が来てくれたんだ。大丈夫。そう言われて――次に目が覚めた時、俺はベッドの上にいた。
「本当に、お前の生命力には驚くぜ。普通なら、まともに立って歩けるようになるまで一年はかかる。それをたったの数ヶ月で、よくここまで回復したもんだ」
「日ごろからプラントの力仕事で鍛えてたからね。それに、ベッドで寝てるのはいい加減飽きたし」
「だからって無茶するんじゃねぇぞ。近所以外の外出は、主治医としちゃ、まだ許可できねぇからな」
「分かってるって。先生に黙ってトザに行こうとするような真似はもうしません」
半月前のことを思い出し、俺はわざとおどけた口調を作って言った。
「……まったく。ベッドから降りれるようになった途端、トザ行きの長距離バスに飛び乗ろうとしやがって。偶然ターミナルの近くでお前を見かけたって奴が俺に教えてくれなかったら、どんなことになってたか……。考えただけでぞっとするぞ」
煙草の灰を落しながら、サカキが呟く。「少しでも早く兄貴に会いに行きてぇっていう、お前の気持ちも分からなくはないけどな。今はまず、自分の体を第一に考えろ」
「……」
サカキの声に含まれた真剣な響きに、俺は笑みを薄めるとさりげなく視線を逸らした。絵葉書に映る小さな家の、窓灯りが一瞬ゆらぐ。
「――いつか俺も、こんな景色、見に行けるかな」
「いつかなんて遠い未来じゃなくても行けるさ」
独り言のように零した言葉に、煙草で掠れた声が答えた。「西の国だかどこだかをふらふらしてる、あのキザ野郎に言ってみろ。喜び勇んで迎えに来るぜ」
続ける声が笑っている。それにつられて、俺も口元をゆるめた。
「でも、俺がキサさんと旅に出ちゃったら、先生、寂しくない?」
「馬鹿言え。俺はもともと独りだったんだ。お前がいなくなったところで、元通りに戻るだけだ」
「だから、そうやってムキになるところが、逆に怪しいんですけど」
「……うるせぇ奴だな」
白髪の混じった眉が、面白くなさそうにしかめられる。俺は肩で笑いを堪えた。
「旅先から絵葉書を出すよ。先生や、オミたちや、トザにいるセイジュとケンショウや、……それから兄さんにも。いろんな景色の絵葉書を出すんだ。キサさんが俺にくれたみたいなメッセージを添えてね。……どうかな。良い考えだと思わない?」
「……まあな」
「きっと、届くよね。キサさんからの絵葉書が俺に『届いた』みたいに。俺の出した絵葉書も、皆や、それから兄さんに、届くよね」
「……ああ」
微かに目を眇めて、サカキが小さく頷く。「届くだろうさ。お前からの絵葉書なら、きっとな」
「……」
――どんどんどん!
その時、ドアを激しくノックする音が聞こえてきた。家の玄関じゃなく、診療所の方だ。
『おーい、先生! いるかー!?』
呼びかけるような声が続く。
「やれやれ。今日も一日、貧乏暇なしか」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、白髪頭を掻きまわしながらサカキが立ち上がる。
「カイエンの頼れる名医、だからね」
「ふん。そのわりには、どいつもこいつも俺への愛とか尊敬が足りてねぇ気がするぞ」
「俺は先生のこと、大好きだよ?」
「……言ってろ。馬鹿が」
サカキはソファの背に掛けっぱなしの白衣を取り上げ、照れ隠しに肩をいからせながら、それをばさりと羽織る。「おら。お前もさっさと来い。診療所の手伝いも大事なリハビリだ」
「そうやって、なんでもリハビリにかこつけて、俺に雑用押し付けようとするんだからなぁ」
「さっさと元気になるんだろ。だったら文句言うな」
「はいはい」
部屋を出て行く後ろ姿に首を竦めて立ち上がり、テーブルの上に絵葉書を置く。裏面に刻まれた文字を、俺は指でひとなでした。
アキくん、元気かい。
俺はいま、西の国を旅しているよ。
ワダツでは想像もつかないだろうけど、
世界にはこんなに美しい場所がまだ残っているんだ。
いつかキミにも見せてあげたいな。
こうして旅をしていると、
俺みたいな人間でも時々思う。
この世界も、まんざら捨てたものじゃない。
ねえ。そうは思わないかい?
「……うん。そうだね、キサさん」
たぶん、小さな奇蹟はたくさんあるから。たとえば、聖誕祭の朝に届けられた絵葉書のように。たとえば、あの日の雪のように。たとえば、俺がまだ生きてるように。小さな奇蹟が降り積もって、いつか世界を染めるかもしれない。その日が来るって信じられているうちは、俺は歩いていける。涙が出そうなほど、きれいで懐かしい場所が、この世界のどこかにある――そう信じていられるから。
『アキ! なにやってんだ! さっさと来い!』
診療所からドクターのがなり声が聞こえてくる。
「ごめんごめん。今、行くよ」
笑いながら俺は答えて、歩き出す。そして、ふと、気付いたりする。今、笑えていることも、たぶん小さな奇蹟のひとつ。連なって、降り積もって、そしていつかきっと、届けたい誰かに届く。
ショコラ・シャンパーニュ
***ご説明***
BLゲーム「LiveXEvil」のSSです。
「LiveXEvil灼熱のエデマ」ならびに「LiveXEvil熱砂のプロメテウス」のネタばれを含みます。
なお、このSSは宙地個人の二次創作物であり、オフィシャルとは一切関係ありません。
上記をご理解いただける方のみ、下記リンクよりどうぞ。
BLゲーム「LiveXEvil」のSSです。
「LiveXEvil灼熱のエデマ」ならびに「LiveXEvil熱砂のプロメテウス」のネタばれを含みます。
なお、このSSは宙地個人の二次創作物であり、オフィシャルとは一切関係ありません。
上記をご理解いただける方のみ、下記リンクよりどうぞ。
※「熱砂のプロメテウス」本篇終了後の設定です
※ナガル視点です
「最近トザじゃ、懐古主義だとかいうもんがずいぶん流行ってるみたいだねぇ」
フルート型のグラスを棚から一つ取り出して、私は言った。照明を絞った店内にたった一人の客は、それを聞いて穏やかに頷く。
「ワダツ人がニホン人だった頃の古き良き習慣を、もう一度見直そうという動きがあるそうです。『お盆』や『節分』、『端午の節句』に『正月』――でしたか。私も書物で少し齧った程度ですが」
父親に良く似た柔らかな声が答えた。年を重ねて近頃は、顔立ちや話し方だけでなく、醸し出す雰囲気までもますます似てきたような気がする。
「ようやくこの国の人間も、昔を振り返れるだけの心のゆとりをもてるようになってきたってことかもしれないねぇ」
「そういうもの、なのでしょうか」
「そういうもんさ。過去が生傷のうちは、痛みが勝って到底さわれたもんじゃないよ。思い出すことができるようになったってことは、傷が癒えたか――もしくは、かさぶたん中に隠れて見えなくなったってことだ」
私はグラスをテーブルに置き、リキュールのボトルが並ぶ一角に手を伸ばした。普段はあまり使わない一本を選んで手にとる。それから、氷で冷やしたシャンパン。ざっと瓶を拭きコルクを抜いて、リキュールボトルの隣に並べる。
「……でも父は、きっと喜んでくれていると思います。私たちの祖先が故国と共に失った最も大きなものは、その国が長い年月をかけて築いた文化だと、常々そう言っていましたから」
彼が言った。私は小さく笑う。
「君の父親は、若い時分からそうだったよ。酔うと必ずその話を始めるんだ。百万遍は聞いたといっても、すぐに忘れちまうんだよねぇ。次に飲むと、また同じ話を始める」
「家でもいつもそうでした。とはいえ、多忙でほとんど自宅にいる暇のない父でしたが……。たまに少し時間があって、家で酒を飲むような時には、必ず私や母を相手にそんな話をしていました」
黒いケープコートの肩が微かに揺れた。襟口からは、この国でただ一人の人間にのみ、身につけることが許された特別な徽章が覗いている。いつだったか、旧い友人の襟にも同じものが光っているのを、私は見た覚えがあった。こんなところまで同じだと、笑みが少し苦くなる。
「それだけ彼は、あたしらの祖先が失っちまったもんを取り戻したかったんだろうね」
フルートグラスにリキュールを注いだ。底に二センチ溜まる程度でストップする。それから金色のシャンパンを注ぐ。この日のために伝手を辿って、西の国から特別に取り寄せたものだ。あの時の味を再現するには、どうしてもこのシャンパンでなければならなかった。
グラスの中で二種類の液体が混ざり合う。シャンパンの泡を飛ばしてしまわないようにバースプーンで軽くステアすると、私は出来上がったグラスを彼の前に置いた。
琥珀の宙空を金の砂粒がゆっくりとのぼってゆく。夕暮れのワダツの空。この国の枯れた大地を必ず豊かにしてみせると、生まれて間もない新たな『母国』を見晴るかして君は言った。私は何と答えただろう。でかい夢だねと笑ったか。それとも、共に走ろうと笑ったか。振り返れば微かに痛んだ。おやおや、まだ生傷なのかい?
「……綺麗なカクテルですね」
彼が言う。薄茶色の目を細める仕草も、やはり良く似ていた。似てはいるけれど、どこか違う。どこか違うからこそ、一層記憶が揺り起こされる。
「ワダツを建国して最初の年さ。ザギかどこかの僻地でねぇ。偶然、珍しい酒が手に入ったんだよ。バラックみたいな掘っ立て小屋で、彼が作ってくれたのさ。昔、何かの古書で読んだことがあったらしい。……国軍の士官が手飼いの情報屋と、作戦中にアバラ屋で酒盛りなんてのも、不謹慎な話だけどね」
二月の寒い夜だった。ワダツ北端の暗い谷に挟まれた地で、私たちは震えながら似合わない酒を舐めた。濃く甘く仄かにビターなチョコレート・リキュールと、冷え切った金色のシャンパン。グラスなんて洒落たものはなく、手にしていたのはアルミのカップだったけれども、あの夜、友と飲んだ酒は、本当に美味かった。
「ショコラ・シャンパーニュって言うのさ。君の父親はそいつを飲んで、ワダツが生まれた年の今日も国の未来を語ってた。君がその徽章をつける日が来たら、ごちそうしようと決めていたのさ。――さあ、ひとくち飲んでごらん」
「…………」
私の勧めに従って、彼はグラスを持ち上げた。形の良い唇をグラスの縁にそっとつける。唇の形は母親譲りか。瓜二つのようでいて、少しづつどこかが違う。それでいい、と私は思った。
グラスの中身をひとくち舐めて、彼がゆっくりと視線を上げる。静かな笑みが、その顔には浮かんでいた。
「美味いだろう?」
「ええ。とても」
頷いて、彼は続ける。
「……ニホンの習慣のひとつに、バレンタインデーというものがあったそうです。日々の感謝をこめて、親しい人にチョコレートを贈ったのだとか。父はきっと、その習慣のことを知っていたのですね。だから、四十年近く昔の今日、あなたと一緒にこのカクテルを飲んだ……」
「さぁて、ね。そいつはどうだか知らないけれど、少なくとも、あたしが今日、こいつを君に飲ませたかったってことだけは確かだよ」
「何故ですか?」
「あたしは巷の懐古主義なんてもんにそう興味はないけどね。それでも、正々堂々誰かに感謝できるなんて日が、一年に一日ぐらいはあったとしても悪くない」
「…………?」
彼はきょとんとした。そういう顔は子供の頃からほとんど変わらない。可愛らしいなどと言えば、扉の向こうで彼を待つ、あの厳し面の秘書官に苦言を呈されるだろうか。
私は彼を見つめ返した。
「こんな爺になってもまだ、ありがとうの一言がどうにも素直に言えない性質でねぇ。カクテルに混ぜちまうぐらいが、あたしにはちょうどいい」
「ナガルさん……」
「あたしはね。君に心から感謝してるよ。だってそうだろう? 君はあたしらの夢を背負って、今も歩いてくれている。あたしらが失っちまったもんを、一つづつ、取り戻してくれている。……だから」
「…………」
私を見上げる眼鏡越しの目が、微かに揺らいだ――ような気がした。なにかが胸につんと詰まって、テーブルに置いたリキュールの瓶に視線を移す。嫌だね。年をとるといろいろ何だか脆くなっちまう。君はそんなの知らずに死んじまったから、私の気持ちなんか到底分かりゃしないだろう――ねぇ、
黙ったまま、彼が再びグラスを傾ける。私は瓶を手にとって、ゆっくりとそれを磨く。
「……それでもたぶん、父は知っていましたよ。きっと」
懐かしい、だけど微かに違う声が言う。私は小さく笑った。
琥珀の空へと舞い上がる金色の砂の粒。君は今もその空から、この国の未来を見晴るかしているのか。ほら、見てみろよ。枯れた大地に、小さな花が芽吹いている。君の名前と同じ季節が、もう足元に訪れている。
※ナガル視点です
「最近トザじゃ、懐古主義だとかいうもんがずいぶん流行ってるみたいだねぇ」
フルート型のグラスを棚から一つ取り出して、私は言った。照明を絞った店内にたった一人の客は、それを聞いて穏やかに頷く。
「ワダツ人がニホン人だった頃の古き良き習慣を、もう一度見直そうという動きがあるそうです。『お盆』や『節分』、『端午の節句』に『正月』――でしたか。私も書物で少し齧った程度ですが」
父親に良く似た柔らかな声が答えた。年を重ねて近頃は、顔立ちや話し方だけでなく、醸し出す雰囲気までもますます似てきたような気がする。
「ようやくこの国の人間も、昔を振り返れるだけの心のゆとりをもてるようになってきたってことかもしれないねぇ」
「そういうもの、なのでしょうか」
「そういうもんさ。過去が生傷のうちは、痛みが勝って到底さわれたもんじゃないよ。思い出すことができるようになったってことは、傷が癒えたか――もしくは、かさぶたん中に隠れて見えなくなったってことだ」
私はグラスをテーブルに置き、リキュールのボトルが並ぶ一角に手を伸ばした。普段はあまり使わない一本を選んで手にとる。それから、氷で冷やしたシャンパン。ざっと瓶を拭きコルクを抜いて、リキュールボトルの隣に並べる。
「……でも父は、きっと喜んでくれていると思います。私たちの祖先が故国と共に失った最も大きなものは、その国が長い年月をかけて築いた文化だと、常々そう言っていましたから」
彼が言った。私は小さく笑う。
「君の父親は、若い時分からそうだったよ。酔うと必ずその話を始めるんだ。百万遍は聞いたといっても、すぐに忘れちまうんだよねぇ。次に飲むと、また同じ話を始める」
「家でもいつもそうでした。とはいえ、多忙でほとんど自宅にいる暇のない父でしたが……。たまに少し時間があって、家で酒を飲むような時には、必ず私や母を相手にそんな話をしていました」
黒いケープコートの肩が微かに揺れた。襟口からは、この国でただ一人の人間にのみ、身につけることが許された特別な徽章が覗いている。いつだったか、旧い友人の襟にも同じものが光っているのを、私は見た覚えがあった。こんなところまで同じだと、笑みが少し苦くなる。
「それだけ彼は、あたしらの祖先が失っちまったもんを取り戻したかったんだろうね」
フルートグラスにリキュールを注いだ。底に二センチ溜まる程度でストップする。それから金色のシャンパンを注ぐ。この日のために伝手を辿って、西の国から特別に取り寄せたものだ。あの時の味を再現するには、どうしてもこのシャンパンでなければならなかった。
グラスの中で二種類の液体が混ざり合う。シャンパンの泡を飛ばしてしまわないようにバースプーンで軽くステアすると、私は出来上がったグラスを彼の前に置いた。
琥珀の宙空を金の砂粒がゆっくりとのぼってゆく。夕暮れのワダツの空。この国の枯れた大地を必ず豊かにしてみせると、生まれて間もない新たな『母国』を見晴るかして君は言った。私は何と答えただろう。でかい夢だねと笑ったか。それとも、共に走ろうと笑ったか。振り返れば微かに痛んだ。おやおや、まだ生傷なのかい?
「……綺麗なカクテルですね」
彼が言う。薄茶色の目を細める仕草も、やはり良く似ていた。似てはいるけれど、どこか違う。どこか違うからこそ、一層記憶が揺り起こされる。
「ワダツを建国して最初の年さ。ザギかどこかの僻地でねぇ。偶然、珍しい酒が手に入ったんだよ。バラックみたいな掘っ立て小屋で、彼が作ってくれたのさ。昔、何かの古書で読んだことがあったらしい。……国軍の士官が手飼いの情報屋と、作戦中にアバラ屋で酒盛りなんてのも、不謹慎な話だけどね」
二月の寒い夜だった。ワダツ北端の暗い谷に挟まれた地で、私たちは震えながら似合わない酒を舐めた。濃く甘く仄かにビターなチョコレート・リキュールと、冷え切った金色のシャンパン。グラスなんて洒落たものはなく、手にしていたのはアルミのカップだったけれども、あの夜、友と飲んだ酒は、本当に美味かった。
「ショコラ・シャンパーニュって言うのさ。君の父親はそいつを飲んで、ワダツが生まれた年の今日も国の未来を語ってた。君がその徽章をつける日が来たら、ごちそうしようと決めていたのさ。――さあ、ひとくち飲んでごらん」
「…………」
私の勧めに従って、彼はグラスを持ち上げた。形の良い唇をグラスの縁にそっとつける。唇の形は母親譲りか。瓜二つのようでいて、少しづつどこかが違う。それでいい、と私は思った。
グラスの中身をひとくち舐めて、彼がゆっくりと視線を上げる。静かな笑みが、その顔には浮かんでいた。
「美味いだろう?」
「ええ。とても」
頷いて、彼は続ける。
「……ニホンの習慣のひとつに、バレンタインデーというものがあったそうです。日々の感謝をこめて、親しい人にチョコレートを贈ったのだとか。父はきっと、その習慣のことを知っていたのですね。だから、四十年近く昔の今日、あなたと一緒にこのカクテルを飲んだ……」
「さぁて、ね。そいつはどうだか知らないけれど、少なくとも、あたしが今日、こいつを君に飲ませたかったってことだけは確かだよ」
「何故ですか?」
「あたしは巷の懐古主義なんてもんにそう興味はないけどね。それでも、正々堂々誰かに感謝できるなんて日が、一年に一日ぐらいはあったとしても悪くない」
「…………?」
彼はきょとんとした。そういう顔は子供の頃からほとんど変わらない。可愛らしいなどと言えば、扉の向こうで彼を待つ、あの厳し面の秘書官に苦言を呈されるだろうか。
私は彼を見つめ返した。
「こんな爺になってもまだ、ありがとうの一言がどうにも素直に言えない性質でねぇ。カクテルに混ぜちまうぐらいが、あたしにはちょうどいい」
「ナガルさん……」
「あたしはね。君に心から感謝してるよ。だってそうだろう? 君はあたしらの夢を背負って、今も歩いてくれている。あたしらが失っちまったもんを、一つづつ、取り戻してくれている。……だから」
「…………」
私を見上げる眼鏡越しの目が、微かに揺らいだ――ような気がした。なにかが胸につんと詰まって、テーブルに置いたリキュールの瓶に視線を移す。嫌だね。年をとるといろいろ何だか脆くなっちまう。君はそんなの知らずに死んじまったから、私の気持ちなんか到底分かりゃしないだろう――ねぇ、
黙ったまま、彼が再びグラスを傾ける。私は瓶を手にとって、ゆっくりとそれを磨く。
「……それでもたぶん、父は知っていましたよ。きっと」
懐かしい、だけど微かに違う声が言う。私は小さく笑った。
琥珀の空へと舞い上がる金色の砂の粒。君は今もその空から、この国の未来を見晴るかしているのか。ほら、見てみろよ。枯れた大地に、小さな花が芽吹いている。君の名前と同じ季節が、もう足元に訪れている。