3. 中庭を出てしばらく行くと、右手に五号棟が見えてくる。灰色の壁に蔦の這う、いかにも学び舎という雰囲気の建物だ。
約二千人の生徒が籍を置く国立士官学校の広大な敷地には、全部で十五の棟があった。併設された学生宿舎も加えると、小さな町ほどの大きさになる。敷地内には校舎の他に、日用品を売る店や食堂、それからちょっとした娯楽施設も設けられていた。青春の四年間を、全寮制の、しかも門限が厳しく決められた灰色の世界で過ごす若者たちにとって、少しでも「外の空気」を感じられるそれらの施設は、なくてはならないものだ。
(……まあそれも、あと少しの話だけど)
のんびり歩みを進めながら思う。卒業式は二カ月後だ。それが終われば、晴れて俺は自由の身になる。もっとも、卒業後はそのまま軍に入るわけだから、過ごす環境はさほど今と変わらないかもしれないが。それでも、宿舎住まいをする必要はもうないし、門限を気にかけながら街に出かけることもなくなる。とりあえず、今の俺にはそれだけで充分だった。
そよ吹く午後の風に乗り、鐘の音が降りてくる。周囲を行き交う生徒たちの、足取りがあわただしくなる。あと五分で午後の講義が始まるのだ。
俺は靴先を五号棟の出入り口へと向けた。午後のひとコマ目、航空力学の講義室は、この棟の三階にある。少し急げば、充分間に合う距離だ。
エントランスの石段に片足をかけ、そのまま一気に駆け上ろうとして――視界の端にちらりと映った男の姿に、俺は足を止めた。後からきた生徒たちに左右を追い越されながら、少し体をねじるようにしてそちらに顔を向ける
光さえ吸いこむような黒い髪。すんなりとした立ち姿。
ロウ・ナギハラは、周囲の生徒が校舎に向かって足を速める中、ぼんやりと空を眺めていた。右手には白い紙の束を抱えている。ここから見える横顔に、表情らしい表情は浮かんでいない。切れ長の目は、遥か遠くを見つめるように、わずかに細められている。
(なにやってんだ、あいつ)
思ってから、俺は自分の思考に苦笑した。あの男と出会って以来、俺は何度、同じ言葉を胸の中で呟いただろう。学校一の秀才にして、学校一の変わり者。それが、ロウに対する周囲の評価だ。それについては、俺も異論ない。ロウ・ナギハラが学校一の秀才なのは紛れもない事実だし、あいつは変人なんかじゃないと否定できるほど、俺はロウと親しくないからだ。
ロウにはどこか、他人を寄せつけない空気のようなものがあった。
「レン、遅れるぞ」
顔見知りの生徒が、脇を抜けがてら声をかけてゆく。
「……ああ」
俺はロウへと目を向けたまま軽く頷いた。あそこでやつが何をしているのかは知らないが、どのみち俺には関係のないことだ。すでにほとんどの生徒は校舎の中へと姿を消している。急がなければ、本当に講義に遅れてしまう。
ロウはといえば、未だに空を眺めたまま、動く気配は欠片もない。
(本当、変なやつ)
これもまた、もう何度目かも知れない感想を声なく零して、俺はロウから目を離そうとした。
――その時。
「――っ」
ふいに、ざあっと木々の梢を揺らして突風が吹いた。
そして次の瞬間、目の前で起きた出来事に、思わず俺はぎょっとした。
無数の白い紙きれが、ゆるい渦を巻きながら空へと舞い上がる。気流に乗ったそれは、驚くほど高い場所まで、一瞬の内に翔(と)んでゆく。
ロウが右手に抱えていた、紙の束だった。しっかり持っていなかったせいで、風にさらわれてしまったのだろう。しかし当の本人は、それを気にした様子もなく、先ほどまでと同じようにぼんやり空を仰ぎ続けている。
「……おい」
さすがに怪訝に思って、俺は声をかけた。それでもロウは動かない。
(目ぇ開けて立ったまま寝てんのか? こいつ)
一向に反応を示さない相手に不審が募る。
「聞こえてないのかよ」
「――聞こえているよ。僕の聴力は正常だ」
先ほどよりも強めの語調で尋ねると、ようやく返事がかえってきた。独り言をつぶやくような、静かで平坦な声。周囲をして『まるで感情のこもらない』と言わしめる独特の話し方。……いつも通りのロウだ。
「そりゃあ結構なことだけどさ。いいのか? ぼんやりしてて」
俺は怪訝と問いを重ねた。
「いいって何が」
ロウが聞き返してくる。
「さっきの紙だよ。大事なものじゃないのか?」
「あれはただの白紙だから問題はない」
「白紙?」
「白紙というのは、何も書いていない紙のことだ」
抑揚のない声に説明されて、俺は思わず苦笑した。
「あのなぁ。そんなことは言われなくても分かってる」
「だったら、問題はないということも分かっただろう」
そこまで言って、ロウは空へと向けていた視線を下ろし、俺を見た。
声音同様、感情を読み取ることのできない、黒いまなざし。シェーナ人と良く似てはいるが、どこか少し毛色の違う、涼しげな面貌。身長は、俺と同じ170台後半だ。ほっそりとして見えるが、演習のあとの更衣室で見た体躯には、しっかりと筋肉がついていた。もしもこの学校に女子生徒がいたら、きっとこいつはよくモテただろう。
「……だが、あたりにゴミをばらまいてしまった」
静かな視線を俺に向けたまま、ロウが続けた。「あの紙がどこまで飛んでいったのかは知らないが、落下地点にいる人間には、悪いことをしてしまったな」
「……」
やっぱりこいつは変わっている。それを聞いて俺は思った。なんというか――そう、ズレているのだ。俺たちとこいつは、どこか違う。ハツカが聞いたらきっとまた、あのお決まりの台詞を口にするだろう。
「ところで、お前は平気なのか」
溜息をこぼしていると、ロウに尋ねられた。
「なにがだよ?」
「すでに講義の開始時間を過ぎているようだが」
「……げ」
咄嗟に手首の時計を見て、俺は舌を出す。ロウの言うとおり、長針は午後の授業開始時間を五分ほど回っていた。
「急げばまだ間に合うぞ。走れ」
強弱の薄い口調で促される。たしかに、五分程度の遅刻であれば、どうとでも言い訳はできるだろう。
「あ、ああ」
軽く頷き、踵を返しかけて――もう一度、俺はロウを見た。
「て、お前は出ないのか? 次のコマは同じ航空力学だろ」
「僕は出ない」
端的な答えが返ってくる。すでにロウは、俺を見てはいなかった。正面に向き直り、ゆっくり歩き出している。
「最終試験が済んだからって、さぼってると評価に響くぞ」
次第に遠ざかってゆく後ろ姿を眺めながら俺は言う。――言ってから、自分でも、ひどくつまらない台詞だなと思った。ロウがそれをどう聞いたかは分からない。
「さよなら」
ただ一言、ひどく素っ気ない言葉を残して立ち去ってゆく。
(……そういやあいつ、ずっとなにを見てたんだろう)
校舎の向こうへと消える背中を見送りながら、俺はふと、そんなことを思った。
(つづく)
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